雄三への進化②野ざらし営業にしてみた
前回の続きです。
ただでさえ、手持ちカードをフル活用して遊びつくしている真っ最中。
謎の真夜中ハイテンションにも似た攻めの姿勢と、我が妄想力との合わせ技。
それは、星という鉱物すらも、その旺盛な食欲でバリムシャ貪る赤い帽子の配管工(任天堂所属)のごときスーパー無敵タイムの様相を呈します。
なので、日常生活における、ちょっとイラッ☆とか、ちょっとしょぼーん(´・ω・`)くらいなら、私とて羽毛のごとき軽さで受け止められるのです。
加えて、本体が妄想と鎖骨で構築されている身としては、脳内世界だけで十分に感情を昇華させられますし、そもそも感情の波自体が凪いでしまったりもします。
まさにこんな感じ。
好きなものだけガン見しておればよいではないか、よきにはからえ的スタイル。
だけど、そうも言ってられなくなる時が、たびたび我が身を襲います。
それが心の大運動会が開催されたとき。
ゲルマン民族大移動なみのその動きに、あえて名前を付けるとしたら、私の場合は「寂しい」「虚しい」が当てはまる場合が多かったかなと。
たとえば、自分のすごく内側に存在してた人が、ある日突然いなくなる時とか。
物の怪の類にでもならない限り、自分も相手も命に限りがありますので、当たり前なことなんですけど、わかってたって、喪失感が消え失せてくれるものでもなし。
そういう、こちらの意図とは関係なしに、スパーンと日常が切断されるとき。
私は面倒くさがりなので、心の大震災時にジタバタするのが大嫌いでした。
閉店ガラガラとシャッターを閉めて丸まって、ひたすら嵐が過ぎ去るのを待つ手負いの獣体勢がデフォルトでした。
そもそも、正々堂々真正面から困難と向き合うだなんて、どこの光属性勇者でしょう。
私はしがない村人Aなのです。
自分の心が壊れそうなくらい辛かったらあっさり逃走します。
すなわち、その問題ごと、時空の彼方にポイです。
なかったことにします。
喪失感もろもろ、じーっと浸透させてカラダに慣らしていく方法を選択していました。
だけど、果たしてこれで良いのだろうかと、ある日ふと思ったんです。
別に間違ってるわけではないんでしょうけれども。
じじーーっと浸透圧にまかせて、しみこませている間、わたしの感覚はパッタリ閉じてしまいます。
きれいなものを見ても、ぜんぜんきれいと感じられない。
美味しいものを食べても、ぜんぜん美味しいと感じられない。
なんもかんもが不明瞭。
そんな灰色な時間に慣れて、やり過ごせるようになるまで、モヤモヤ続きます。
めっちゃ損しとるがなっっ!!Σ(゚Д゚)
とても辛い出来事が起きたうえにこの仕打ち!
なんてこった。
ならば、いっちょニュースタイルで向き合ってみましょうかねと試してみたことが、転機だったのだとおもいます。
ずしーんと重たい気持ちに対して、新装開店OPENです。
へいらっしゃい!(・∀・)
だがしかし、もてなそうにも、わが心の店内でひたすら暴れまわるモンスター顧客。
おのれ、どうすればよいのだ。
ずっしり重たい気持ちを心の中に招き入れたら、なんかめっちゃ備品が壊されていくんですけど!お店大ダメージなんですけど!しんどいんですけど!
ぬう。ひとりで手に負えないのであれば、外部からの助っ人を呼ぶしかあるまいて。
ということで、スキル【救援】を覚えました。
つらいよーこわいよーかなしいよー壊れちゃうよーわぁぁん( ノД`)
好きなほうなんか見れないよーわぁぁぁぁん( ノД`)
と、ちゃんとお外に向かって意思表示。
そうなってくると、もはやシャッターという存在が邪魔です。
いっそ全部オープンにしてしまえ、今日から野ざらし営業DAZE☆
とばかりに、全方位開放。
ずっしりへヴィな感情だろうと、友人知人にご近所さん、通りすがりのおっちゃんだろうと、どなたでもご入店いただけます。いらっしゃいやせー。
もう恥も外聞もへったくれもありません。
フルスケルトン営業です。現実でやったら、ただの廃墟です。
ホルムアルデヒドが懸念されます。
オープンするまでは、生まれたての小鹿以上の震えっぷりでしたが、いちど開放してしまうとこれほど楽ちんな状態もありませんでした。
今までは、ぼろかす状態で、さらに外側からの感覚や情報を受け入れることも、救援要請することで発生する人間関係も、じぶんの状態確認すら、ぜんぶ面倒くさくて放棄してました。
私のメモリー容量がいっぱいいっぱいすぎて、満員御礼ごめんなさいと思っていましたし、ただでさえ大怪我なところに踏みこまれて余計ヒリヒリするのも嫌でした。
だから「しばらく休業します」状態に閉店ガラガラしていたのですが、店舗拡張ではなく、店舗ごと爆散という斬新な発想により、めでたくメモリ—不足は解消されました。
さらに開放感が痛みを上回るという素晴らしいおまけ付き。
ネガティブな気持ちごと無かったことにするんでも、じっとやり過ごすんでもなくて
その気持ちを抱えこむんでもなくて、たんに「あ、いるなー。暴れてんなー」くらいの感じで存在を認めちゃうほうが、なんだか安心しました。
その気持ちをどうこうしたいから、楽になりたいから、とかではなくて。
もう、お日様は東から昇るし夜になったら月が出るよねくらいの感覚で、人間なんだから絶望くらいするしドロドロな感情くらい持っちゃうよね、みたいな。
そうなってくると、へヴィな気持ちとコンニチワすること自体に、そこまで忌避感がなくなってきました。
今ならば、フランスパン咥えたへヴィエモーションさんと、街角でぶつかるところから始まる甘酸っぱいストーリーすら妄想可能です。
こういうところが「祟り神になっちゃったら、戦うより取り合えずおそなえして祀っとけばいいよね」精神が、骨の髄まで染みついた日本人だなぁとおもいます。
感情から自由になる、という言い方が一番しっくりくるでしょうか。
好きほうだけじぃっとガン見する、ともちょっと違うくて。
でも、そのステージを経たからこそ、こういう感覚になれたのかなぁ。
うまく表現しづらいのですけれど、 感情とジャッジが別物っていうか。
だからいま、好きなだけ笑って泣いて落ち込んでっていう、ふつーの時間をふつーに過ごして、とても幸せなのだと思います。